こんにちは。明治大学交響楽団101代コンサートマスターを務めている高橋飛羽です。
せっかくの機会なので今回はコンマスについてあれこれ綴っていこうと思います。思いついたことを並べていくので話のまとまりが無くなってしまうかもしれないですがご了承ください。
まず。
コンマスはとても難しい役職だと思います。それは技術的な意味合いももちろんあります。楽器を弾き続けながら指揮の意図を考え、みんなの音を聞き、ザッツを完璧にこなすのは1アマチュア演奏家がこなすには技量的に無理があります。無理とわかっていてもなるべく高いレベルで再現できるように日頃の練習は欠かせません。また様々な知識も最低限頭に入れておく必要があるでしょう。
ぼくはコンマスはオーケストラの限界値の指標であると考えています。
もちろん個人レベルでは各オーケストラに名手的な人はいますが、オーケストラの総合的なレベルや音楽性がコンマスを超えることはないように思います。だからこそコンマスは常に向上心をもってオケの限界値をどこまでも引っ張っていく必要があるように感じています。
個人的に1番難しいコンマスの悩みは、演奏のクオリティにどこまでこだわるのかの線引きだと思います。大学オケには色んな人がいて音楽に対するモチベーションや楽器の技量だけでなく、忙しさなども人それぞれ違います。
これはとてもいい事です。元来、アマチュアというのは愛好家という意味です。
全員にそれぞれのバックグラウンドがあり、娯楽としてみんなで集まり演奏するのが本来のありようです。楽しくできればクオリティなんてものはどうでもいいんです。
しかしこれは演奏者側の言い分です。お金を払い時間をかけて演奏会に来て下さる方々には到底関係ない話です。普通の団員であればこんなこと気にしなくてもいいかもしれないですが、コンマスはいわば音楽面の最高責任者なので、みんなで仲良く音楽できればいいね、というのは少し無責任な気がします。
では団員に練習してきてね、練習来てね、と伝えればいいのでしょうか。
伝えるのは簡単ですがコンマスにそこまでいう権利があるのかは悩ましいです。
演奏の質は重要ですが、団員にはそれぞれの人生があります。またぼくを含め全ての団員に実力の限界があります。半年間必死に練習しても、どうにもならないような場面も何回も体験してきました。
悪い言い方をすればアマチュアの団体にはある種の妥協がつきものです。この妥協点をなるべくいい塩梅まで持ってくのがコンマスの責務であるように思います。コンマスに就任して以来、その場しのぎで様々なことを試していますが、これを解決する具体的な方法はまだ分かりません。
閑話休題。
「人生は芸術を模倣する」
19世紀のフランス人作家であるオスカー・ワイルドが残した言葉です。人生とは虚構であり、芸術こそが真実なんだそうです。
ワイルドの本意とは少しズレてしまいますが、ぼくはこの言葉を芸術こそが人生を導くという意味で捉えています。人生は芸術の追体験であるともいえるかもしれません。人生は自分がいままで触れてきた音楽や美術、文学などの芸術に潜在的に引っ張られているといった感じでしょうか。ぼくの大好きな考え方でもあり、音楽をするうえで特に大切にしています。
バーンスタインは自身の境遇との共通点からグスタフ・マーラーを敬愛していました。するとある日自身がマーラーである夢をみることになり、それ以降彼は自身がマーラーの生まれ変わりであると強く信じるようになります。マーラーの曲についてまるで自分で書いたように感じることもあったみたいです。
この話はだいぶ特殊な例だと思いますが、作曲者や作品たちに思いを馳せると多くの感情や体験を得ることができる気がします。まるで自分が彼らの人生を共に歩んでいるように。「人生は芸術を模倣する」
最後に。
話が変な方向に逸れてしまいました。12月26日にすみだトリフォニーホールで明オケの第101回12月演奏会が開催されます。この日、演奏者や足を運んでくださる方々など会場にいる全員が、音楽という縁に導かれ同じ空間で同じ時間を共有するいわば運命共同体です。
そこで響く音はワイルド風に言えば会場全員の人生の表れ、真実であるかもしれません。一体どんな音が聞こえるのでしょうか。
【第101回定期演奏会】
日時 2024年12月26日 18:00開場 18:30開演
会場 すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目
・L.バーンスタイン / キャンディード序曲
・S.プロコフィエフ / ロミオとジュリエット組曲より抜粋
・D.ショスタコーヴィチ / 交響曲第10番
指揮者 和田一樹